狩野一信 五百羅漢【抜粋】

狩野一信 五百羅漢【抜粋】

狩野一信
知る人ぞ知る幕末の絵師狩野一信(かのうかずのぶ)は、ことに仏画に本領を発揮して、斬新な羅漢図を描いたが、東京都港区芝にある増上寺の五百羅漢図100幅(増上寺本)が代表作として知られている。 

増上寺・五百羅漢図(増上寺本)は増上寺内源興院の了瑩(1780-1854)が発願主となり、狩野一信を絵師として、嘉永7年(1854)春に筆を起こしてより、およそ十年の歳月を費やし、文久3年(1863)に終えたと云われる。 了瑩は制作当初に没し、その後を継いだ亮迪のもと、一信は制作を続け、96幅を描き上げたところで、文久3年に没した。 享年48歳。 残りの4幅は、弟子の一純が一信の下図をもとに描いたと云う。
 開眼供養ののち増上寺ではこれを本堂に掲げての「羅漢会」が毎年春秋二回、彼岸の中日に行われるようになったと云う。 その後、明治6年(1873)十二月晦日夜半、増上寺は放火による本堂罹災という不幸に遭遇するが、本図は幸いにも経蔵に納められていたため難を逃れた。 しかし、折からの廃仏毀釈の動乱の中で、しばらくは年中行事としての「羅漢会」も中断を余儀なくされたようで、漸くこれが復興をみるのは、明治11年(1878)8月、一信の妻逸見妙安の尽力によって山内に羅漢堂が建立されてからとなる。 以後、妙安自らがその堂守となり画軸の保管、朝夕の供養の勤めなどを行うに至った。 そして妙安没後は一門の人の手によってこれが受け継がれ、昭和20年(1945)の戦災による羅漢堂焼失の時まで守り続けられた。 羅漢堂は焼失したが五百羅漢図は無事保管され続けた。

五百羅漢図は次の様な構成となっている。 
  第一幅から第十幅までは羅漢たちの日常の姿、
  第十一幅から第二十幅までは 六道の苦から衆生を救済する様子、
  第二十一幅から第二十五幅までは 頭陀行と呼ばれる修行の様子、
  第二十六幅から第三十幅までは 羅漢達が神通力を発揮する場面、
  第三十一幅から第三十五幅までは 羅漢が様々な禽獣を手なずける場面、
  第三十六・三十七幅は 龍宮での歓待供養の場面、
  第三十八幅は 仏像や舎利を洗い清める場面、
  第三十九・四十幅は 寺院建立の場面、
  第四十一幅から第四十五幅までは 羅漢が七難から人々を救う場面、
  第四十六幅から第五十幅までは 東西南北の四洲に遊化する姿
を描いている。 このように五十幅についてそれぞれ具体的な場面を設定することは従来の羅漢図には見られず、一信の五百羅漢図の大きな特徴になっている。


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